四度、ひとごろしの話。

 これから嫌な話をする。
 そんなものは読みたくない、という人は移動を推奨する。




 かつて、小学校に男が侵入し児童らを手当たり次第に殺傷するという衝撃的な事件があった。
 犯人の男は、公判中傍聴する遺族に向かってこんな旨のことを言い放ったという。


 「お前らんとこのガキは俺に殺されるために生まれてきたんだ。ざまぁみろ」


 …念のため言うが。
 この発言に対しては全く共感できない。理解すらもし難い。正直想像すらできなかった。
 何をどうすれば、ここまでエゴを拗らせることが出来るのか。


 さて。時を下って今年の夏。
 刃物による殺傷事件では国内戦後最悪と言われる惨事が引き起こされたのは周知のとおり。

 …困ったことに。
 この件の犯人が公判中、遺族に向けて何か言うとすればその内容が予想できてしまう。

 何か劇的な心境の変化があったり、司法的な駆け引きとかがあったりしない限り、言うに違いないのだ。


 「あんたらだって本当はホッとしてるんだろうが」と―


 予想できてしまうということは。
 その心情を理解でき、共感も出来てしまえるということ。
 かの犯人の動機となったものは、我が内にも住み着いている。
 
 そして。似たような想いがちらとでも心中を過ったことのある人はかなり多いのではないか。
 閣僚にすら、その件の被害者になったような人を指して「この人たちに人格はあるのか」とか漏らした人がいるくらいなのだから。

 そのような指摘をされると。
 大抵の人は「良心」とかいう極めてあやふやな概念を持ち出して真っ向から否定するだろう。
 非常に心許ないことに。社会は万人がこの「良心」というやつを持っていることを前提に構築されている。
 実際は他者に対してばかり要求し、自分の中のそれは割と容易く決壊する程度のものでしかないのに。


 「私に良心はない。あるのはただ神経だけである」と言った文豪がいた。
 これが意外に万人の実際のところなんじゃないかと思う。

 社会倫理やら秩序やらも、
 最初に「良心」ありき、という姿勢を見つめなおしたほうがよくはないか。
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