日本の鉄道史上指折りの惨劇となったかの脱線事故より今日で8年。
もうそんなに経ったのかと思う反面、まだそれだけしか経っていないのかとも思える、強烈な出来事。
未だにその責任の在り処を巡って、物議が醸され続けているのは周知の事実である。
―さて。
「責任」って、何だろう?
「責めを任じられる」と書く。
ざっくり言えば、「何かの迷惑になった場合代表して叱責を受ける」と言う意味だろうか。
極端な話、「生贄にされること」である。
特に。不特定な誰かのためにその身を犠牲にすることを美徳と考えるこの国のような倫理観上、責任を負うことは尊いこととされる。
所謂「偉い人」というのに権威があったり尊敬が集まったりするのはその人が特別な人間だからと言うことではない。責任があるからだ。
その下にある者に成り代わって他所からの責めを受ける立場だからこそ、尊いとされるのだ。
―だが。
実際は「生贄なんぞになりたくはない」というのが、大方の本音であろうと思われる。
誰だって自分の直接には携わらない物事によって責めを受けたりはしたくはなかろう。
そんな気持ちを縛るためにも、
責任ある立場、というのには高額の報酬が支払われるのが普通である。
だがまぁ、実際には、
責任を買って出てその恩恵に与る一方で、実際に責めを負うなど真っ平御免という輩が多いだけになっていないか?
ゆえに。「責任の在り処」というやつはたらい回しにされがちなのだろうね。
物語などでも、
「こいつを殺せば万事めでたし」「こいつさえ捕まえれば全て解決」という特定の存在を立てるのが慣例となっているが。
そんな風に責任を誰かに集約しつつ、自身が責任を負う事は避けたがるのが、俗世間の感覚なのか。
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