最初に言っておく。
俺の顔は飾りd 我はネットでは思想信条は語らない。
それっぽいものはあくまで思想云々「以前」の事のつもりだ。
それさえ思想に見える人は・・・また別の思想に傾倒しているものと見なす。だからどうするというわけでもないけれど。
ともあれ。
また今年もこの時期が巡ってきたのでそれっぽいことをちまちま書く。
去年の今頃。「平和ボケの何が悪いんだ」とか言うことを書いた。
だが最近では。「してはいけない平和ボケ」というのもまた、在るんじゃないかと思うようになって来た。
言わば。
「平和ボケ野郎どもめ」「奇麗事で平和が守れるか」とか何とか口にするのもまた、平和ボケの一形態なんじゃあないか、と。
戦車や戦闘機がかっこいいから、という理由だけで自衛隊に入って厳しい訓練を乗り越えられる人たちがいる。これって実は平和ボケの最たるものなんじゃないか、って思うんだ。
あんまり、自分のやってることの本当の意味を理解してるとは思えないんだな。
人には結局裁量というものがある。その裁量の範囲内でしか物事を推し量ることは出来ない。どんなに大切なこと当然のことであっても、その裁量の外側にあったなら意味の無い取るに足りないことになってしまう。
平和な世の中に育った場合。
戦車や戦闘機に乗ったり、鉄砲持ったりすることがどういうことなのか。それを裁量の内側に持って来ることはきっと難しいんだろうね。これは立派に「平和ボケ」といえるんじゃなかろうか。
戦争をガキのケンカか、ヤクザの出入りと似たようなレベルでしか認識できないのだ。
実際の戦争とは高度な駆け引きをバックに持つ外交手段の一種だ。怜悧極まる計算ずくが無ければ出来るもんじゃない。ヒステリックな精神論やら矜持民族意識を押し出してるようでも、裏では必ず極めて実利的な損得勘定が動いている。
そう考えると。日本に戦争を仕掛けられる国なんて世界に一つしかない。
―そして。それは決して国民が食っていくのもカツカツな某国じゃあないのだ。
旧大戦のことを挙げて戦争反対を唱えるものを共産主義的思想と称してあたかも悪いことのようにあげつらう風潮があるけど。
当たり前のことを当たり前に言うことが出来ない世情ほど危険なものはない、と思わないか?
ただ我は。
戦争も、人が死ぬのも、大っ嫌いなだけなのに。
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